FC2ブログ

ars combinatoriaな日々

新国立劇場《ローエングリン》

新国立劇場《ローエングリン》,楽日に行って来ました。去年のバイエルンのボータの美声が素晴らし過ぎたのでもう満足と思いつつ,バイロイトの映像で(容姿よりも)甘い歌声がローエグリンにぴったりとやっぱり聴かなくちゃ。(でもキャスト変更が多過ぎるのであくまで期待し過ぎないよーに)

 やはりなんといってもフォークトのローエングリン。甘くて柔らかい声が素敵だけど,輝かしい神性みたいのはないかなあ。でもルックス含めて1人異次元に浮いてるというのがいいのです。ローエングリンは騎士であり王子様な,英雄とはまた違ったキャラクターだし。

 舞台美術は電飾のバックが硬質な音楽に合ってました。でも花火とか具象的なのはちょっと興ざめなのであくまで抽象的に通して欲しかった。白鳥がやってくるところや,エルザに疑惑が残っているように白に紫が挿してるところとか心理描写を助けているのはよかった。衣装は1・2幕のエルザと合唱の衣装がヘン。でもエルザは短いのはおかしいけど,その後結婚式で白いロングドレスになり,初夜の場で短い白の下に黒いパンツ,終盤で黒いドレスとこれも心理に沿ってわかりやすい。

 他に2幕のあくまで尊大なオルトルートと二人きりだと彼女に頼り切る殊更弱々しいテルラムント。ここでお花畑なエルザはオルトルートじゃなくてもムカつくけど,追い詰められ,結婚の場に向かうのにもローエングリンが付いてないのが面白い。そしていよいよ帰る段になってようやくエルザを抱き寄せる身勝手さ。解釈や読替えではなく演技で物語るシンプルさはとてもよかった。最後に帰って来た小さなゴットフリートが1人残される絶望感も筋が通ってる(ここで如何にも日本人のコじゃなくてよかったんだけど,実はダブルキャストだった)。 あ,演奏会形式でいいんじゃと思ってしまうのはシンプルな演出ではなく無理な読替えなんかを見たときなんですよね。

 ワーグナーはやっぱりいいなあ。音楽が心情に寄り添い更に高めてく。それを一番感じることができる舞台だったと思います。楽日なのでとってもカーテンコール長かった。もちろんローエングリンが一番喝采ブラヴォーでした!

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2012

♪すっかり出遅れましたが,今年のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(LFJ)は「サクル・リュス~ロシアの祭典」っつーことで。えええ,あたしのドミトリー(ショスタコ)がなんではしっこなのよおお。
 それはともかくっ(3/4に日比谷行くからいいんだ…),LFJはチケット取るのが大変だからある意味“祭り”で,あちこち移動忙しないクラヲタで殺伐としているのだ。まあチケットさえ取れてばそれも楽しいといえば楽しいんだけど。あれー趣旨となんか違くない? でもでもバッハのとき,もっと落ち着いてちゃんとしたホールで聴きたいなあと思ったしー。

 もとい,今年のはそーですね,サンクトペテルブルクの合唱でカリンカとか聴いてみたいなあ。これは822席だから取れるかな。132のテレム・カルテット,煙突のそばのチャイコフスキーとかフォンタンカ川に沿って散歩するチャイコフスキーとか北部の民族を訪ねるチャイコフスキーって気になるう。135,321モスクワ大司教座合唱団の16,17世紀のロシア正教会典礼音楽なんてのもあるし。
 あら,ちょっと行きたくなってきました。チケット取れたらね。そしてまた誰も誘えない~。バッハのときは違うプロ聴いてた友達と合流したけど。

バイエルン国立歌劇場《ローエングリン》

 

バイエルン国立歌劇場来日公演,ワーグナー《ローエングリン》(10/2)。久しぶりにNHKホールに行きました。原宿から歩いたので代々木公園の咲き始めた金木犀が香ってました。彼岸花はもうすぐ終りそうだったけど赤いのと白いの。
 エントランスでママと待ち合わせてたので15分前の金管ファンファーレが聴けた!

 タイトルロールは代役のヨハン・ボータがすごいらしいとは聞いてたけど,ルックス的に全然期待してなくて(確かに声は響くだろーけど…),いや本当に素晴らしかった。もーとにかく美声でよく響くけど大声じゃなくて深いの! 声だけ聴けば間違いなく麗しい白鳥の騎士様です。今まで聴いたローエングリンで一番よかった! 今までって生は93年のベルリン・ドイツ・オペラ以降なので,そのあとラインと新国くらいですけど。《ローエングリン》ってあんまり上演しないんですよね。前奏曲やライトモチーフがきらきらなのがもちろん素敵だけど,《ローエングリン》は合唱がたくさんあるのがいいんだよなあと改めて思い出しましたよ。

 演出がまっったくわからなかったので,もう声を聴けばいいやーみたいな。オペラは歌詞が変えられないから,青いシャツ着て(ホントはTシャツ…)さすらいの大工でも「父はモンサルヴァートのパルツィヴァール(字幕がなんでパルジファルじゃないんだろう)」って身の上を語ったり,オルトルートがゲルマンの神々を呼ばったり,全く見た目と乖離してるんですけど。もうね名前を知らないだけじゃなくて姿の見えないアモールでいいですよ。

 金管とオルトルートのワルラウト・マイヤーがちょっと細いような気がしたんだけど,NHKホールだからかなー。ちなみに3F正面3列目。
 だいたいカーテンコールではオルトルートに一番歓声が上がるんだけど,今回は間違いなくタイトルロールのボータが盛り上がってました。内容的にはオルトルートはワーグナーの脚色なのである意味おいしい役なんですが,彼女が目立ってしまうとエルザ自身からの疑いや純粋に名前を知りたい・呼びたいという願いが薄まってしまってるんじゃないかなーと思うのです。

 とにかく神々しくも圧倒的なローエングリンで異界のものである彼の存在感が際立っていました。だから余計読み替えの演出と関係なく本質的な騎士ローエングリン様だったのです。きっと生で聴かないとこれは体感できない舞台だったと思うので,本当によかった!

METライブビューイング・アンコール《ラインの黄金》《ワルキューレ》

♪17・18日にMETライブビューイング・アンコール,ようやく《ラインの黄金》《ワルキューレ》観ましたー!
 なんといっても新制作のロベール・ルパージュ演出ですよねえ。あのセット,マシーンというくらいなので,美術というか単なる装置です。ノートゥングの刺さった1本だけ木を投影したりして映像も抽象的ではないけど,あくまでシンプルさと素材の冷たさが全面に出てる。ある意味演出は何もなくて,音楽と歌詞が主体です。そういうシンプルな舞台は2000年のベルリンフィル《トリスタンとイゾルデ》などを思い出しますが,リング4作をこのマシーンで通してしまうのですよね~。もちろんラインのアルベリヒの蛇なんかからファーフナーなど想像出来ますけど。

 今回の2作の中で印象的だったのはマシーンと格闘したラインの乙女やワルキューレ達よりもヴァルハラ入場シーンで上に広がるスペクトルと神々の縦の動き,炎に巻かれ頑なまでに硬質なブリュンヒルデの眠り。逆さに眠るブリュンヒルデは先に画像見たときからマン・レイの『長い髪』(1930)を連想してました。この写真はモノクロなので美しい金髪がちょっと金属みたいなのですよ。

 ただ《ワルキューレ》は特に二人の対話というのが多くてかつ長いので,生みたいに全体を見つつ歌手の表情をオペラグラスで覗いたりオケに目をやったりというわけにいかないので,このシンプルな舞台をこれだけ長時間与えられたアングルだけで見続けるのはちょっとつらい。ピットが見えないのはワーグナー的には正しいのかもしれないけど。
 《ジークフリート》は11月末,《神々の黄昏》来年3月にもう観れちゃうので,10時からはキツいけど今度はちゃんと行こう!と楽しみにしてます。

 ラインの方はママ(←既にワルキューレだけ観てる)と行ったので,終った後お寿司を食べておなかいっぱいなのに,和光のティーサロンで9月まで限定のメロンパフェを食べちゃったっ。

リチートラ死去

 リチートラ死去,ご冥福をお祈りします。
 表現者・演奏家だから…というわけだからではないですが,それでも声楽家というのは自分自身が楽器というのはやっぱり特別で,本当に残念です。

 実は2003年にミラノに行ったとき,スカラ座じゃないけどスカラ座でリチートラのカヴァラドッシで《トスカ》を観たのでした(昼間ミラネッロに行ったので,下の方です)。キャストでも演目でもなくたまたまこの日の夜しか空いてなかったとゆー消極的な選択ですが(トスカならむしろローマ)。それでも他の声よりも彼の甘い星ピカが一番印象に残ったようです。本来ならもうすぐボローニャ歌劇場で来日のはずだったのですね。
 ボローニャはもともと取ってませんが,バイエルンの《ローエングリン》の前にMETのライヴビューイングのアンコールで指環2作に行きます。こっちは画面だけどカウフマン…。いやルネ・コロ引退後は歌手買いはしてませんが~。

新国立劇場《トリスタンとイゾルデ》

《トリスタンとイゾルデ》@新国立劇場は土日が取れなかったので1/7(金)マチネ。お休み取れるかな~と思ってたら予定外に忙しくて,午後だけ休んで45分休憩に戻ったりとワーグナーを聴くスケジュールではないっ。《ワルキューレ》のときもしごとしに戻ったけど,今回は前日も早く帰れなくって完全に寝不足でダメダメでした。
 今回の演出は本水を使ってるんですけど,その演出意図はわからないなあ。コーンウォールに到着のとき盛大にびちゃびちゃやってたくらい。色の変わる大きな月とともに象徴的なものだと思うけど,水の方は本水使ってるんだってーと言われてなかったら注意が行かなかったかもしれないので,月と共に後方のスクリーンに映像でも映しとけばいいのに。ってやれば映像なんて~ブツブツ…と云うことでしょう。本水は水で,それが映ってるみたいに見えたらよかったかも。もともと《トリスタンとイゾルデ》はほとんどタイトルロールの二人が心情も状況も歌ってしまうので,場面転換とかいらないんですけど。音的な部分はよかったです。トリスタン(ステファン・グールド)は3幕では打ち上げられたトドのようでしたが(失礼),ちゃんと甘いテノールでトリスタンらしい。イゾルデ(イレーネ・テオリン)の女丈夫ぶりはいいのですが,特に媚薬を飲んだ後は可愛らしく見える役作りとか,でもブランゲーネ(エレナ・ツィトコーワ)がリアルに愛らしいので,これじゃあ身代わりにはできないわー(そういう設定ではない)。マルケ王(ギド・イェンティンス)は白い仙人みたいな老人で,威厳はあっても嫉妬とは無縁そうでますます演出意図がわからない。クルヴェナール(ユッカ・ラジライネン)は挺臣ながらも鈍感そうなところが誰にも入れない2人だけの世界を邪魔しない。
 演出には関係ないんですけど,聴きながら考えてたのは,イゾルデはアイルランド(1幕は途上),トリスタンはブルゴーニュ(3幕)と,此処コーンウォール(マルケ王のもと)ではないどこかへと願う異世界の二人の居心地の悪さなのかなー,でも二人が愛し合えたのはコーンウォール(2幕)だけだったなんて皮肉な作りだなあ。
 そういえば,舞台美術は抽象ギリギリなのに,3幕でトリスタンの手が血にまみれたのにぎょっとして不思議に生々しいのですけど,ふわふわした二人なのにどこかに逃げようとかではなくて,愛を自覚したら“死ななければ!”という現実的に切羽詰まってる(わりにいろいろ長いけど)感がそういう人間らしい部分が唐突ながら不自然じゃなかったのが面白い。

 《トリスタンとイゾルデ》2000年のに尽きてるので,その後のバイエルンのときとかあんまり深く考えないようです。

ファウストの劫罰

二期会公演《ファウストの劫罰》,7/17 東京文化会館。大島早紀子さんの演出・振付に尽きましたねー。
 曲は演奏会で聴いたことがあったよーな気がするんですが,“劫罰”ってタイトルのインパクトのわりに“気がする”って…。ラコッツィは演奏したことがあるのも大きいけど,やっぱり名曲。だけどこの曲だけ悪目立ちしてるかなー。そもそもこの曲は独立してて,ラコッツィ(ハンガリー行進曲)を使いたいがためにゲーテの『ファウスト』にないハンガリーを舞台に入れ込んだくらい。物語もオペラではないからとはいえ構成が弱いし,いやファウストの性格がファウストじゃない!というか。そういうぱっきりした作品じゃないのをこういうコンテンポラリーダンスに託すことで面白い舞台に仕上がってるんじゃないかなー。ダンサー達がことごとく禍々しく,特に前半の十字架の中のダンサーとかその後のストーリー展開から,ああこういうダンサー達は天使的に正しく美しいものだったのかしら? と考え直すくらい。
 でもそういう勧善懲悪でないのが日本人が作るならではであったり,もしくは“ファウスト”という絶対善でないものの表現としてとても合ってるのかもしれない。でもこのベルリオーズのファウストは結構いいひとだよなあ。プラッソンさんは楽しんでくれたかしら。音楽的物足りなさはそのあとの幻想でばっちり補完しました。幻想交響曲って設定もいちいちバカバカしいけど,曲もとってもおバカさんにできていてむしろあっぱれと思える演奏でした。

影のない女@新国立劇場

♪今更ですが(いつものことですけどー),新国立劇場の《影のない女》を5/29に観てまして。取りあえず観たことないのを観とこうってだけでしたが,やっぱりあんまり上演されないのはそれなりにワケがあるのかなあとゆう。
 あらすじを読んでおいてだからなんなんだろう?と思いつつ舞台を観たらなんかあるかしらと思って,更に途中でプログラムを読んで染物屋バラクの妄想ってのにますます演出意図がわからない。
 内容に比して音楽が高度すぎるんじゃないかとか(そのためには一階席はピットが見えないのでつまらないのかも),こういう一見メルヘン&寓話ぽいのはワイルドのみたいに短めな方がよかったんじゃないかとか。オペラの場合キャラがつかめなくても印象的なアリアやライトモチーフがあればそれだけで説得力があるんだなー,(あんまり好きじゃないけど)モーツァルトの《魔笛》やワーグナーはそういうのが上手いんだなあ。いやリヒャルト・シュトラウスは《サロメ》や《エレクトラ》,《ばらの騎士》…みんな魅力的に出来てるんですけど。
 もっと単純に皇帝・皇后とバラク・バラクの妻が対になるようになってるか(だから1幕の舞台がバラク達の家の影になってるのに気がついてちょっとおおっと思ったんだけど),女性の自己犠牲を謳うなら石になるのが皇帝じゃなくて皇后自身なら彼女の拒否が重い意味を持つのがわかりやすいのになあ。
 演出がバラクの妄想とするならもっと単純にあからさまに1幕を枠組みに入るよう最初から黙役でもバラクを見せればいいのに。だってバラクしか名前がないから…ってだけではアイディアだけで演出されてません。今回のキャストの存在感から乳母の自作自演の方がよほど説得力があったかも。やっぱりオペラは音楽で表現される部分が一番伝わるとゆうことなんですね。

 さっきサイトを確認してたら,また《ヴォツェック》を放送するそーです。6/26@BSプレミアムシアター。こんなに頻繁に放送するのはこのテの作品にしてはめずらしいと思うんですが,《ヴォツェック》はホント面白かったので,まだ観てない方はぜひー。

ヴォツェック@新国立劇場 その2

♪すげー間が空きましたが,アルバン・ベルク《ヴォツェック》続きです。→は新国立劇場じゃなくてオペラシティの今年のクリスマス,写真と記事は関係ありませんってヤツです。

 演出はドイツ演劇のアンドレアス・クリーゲンブルクによるバイエルンとの共同制作。バイエルンでは2008年11月。本水を使うらしいくらいで,あとはあらすじ読んでるだけで他の映像も音楽も全く前知識ナシです。
 最初に狭い舞台が真ん中にあって廻りが塗り込められているようだけど,実はこれがボックスで下に水が張ってあります。水が現れる場面では当然ですがわざと水音をばしゃばしゃさせますが,特に黒子のような男達が金や食べ物?を撒かれる度に動物のように群がって行くのが,ヴォツェックの心理描写というよりもまるで彼だけではない,それは舞台にいる者だけではない観ているわたしたちもそうではないの?というかのようです。
 これは水の上の描写だけでなく,ボックスの中で繰り広げられるヴォツェックへの侮辱的な描写などが戯画的あったり,更に性や死を人形で回避してるので俗悪にはならないというあたり,現代的な演出でよくある時代を移すなどの読み替えと違ってもっと抽象的に仕上がっています。そしてそれが他人事どころか,もっと個別の事件ではなく普遍的な問題のように見せることに成功しているようです。春に観たショスタコの《マクベス夫人》がやはりボックスで閉塞感を演出していたのに,“我々は歩き続けなければ行けない”が“彼ら”の問題になっているのと対照的ですね。

 もうひとつ,子供の扱いが本来はもっと幼い年齢設定なのか最後のシーンは両親の死も知らずに遊んでいるとト書きにあるのに,この演出ではほぼ出ずっぱりで彼は何もかも知っているのでは?となっているので(黙役なので音楽上は何も変えていない),まるで聴衆は彼に自分たちを投射して,舞台の中の眼を持っている効果もあるのかもしれません。そういう意味では全く何の救いもない演出といえるんですが,《蝶々夫人》の息子のように母親が自害してる場面で懐剣を持たせてる演出もあるくらいで,子供だけ無垢なままではいられないでしょう?という無茶なストーリーへの挑戦的な態度が単にきれいにまとめましたでは決してない意図を感じました。
 あと終わったあと,ぶらぼーではなくブラヴィー!がたくさんかかってたのが印象的でした。それぞれいいんだけど,各々そして舞台全体への賛辞です。

ヴォツェック@新国立劇場

アルバン・ベルク《ヴォツェック》観ましたー! 陰惨なストーリーだしと思っていたら,ある意味すっごく面白かったです。バイエルンとの共同制作という演出は日本ではここ以外難しそうな舞台装置だけど,そういうのがケレン味としてでなく生かされたオペラの舞台になってると思います。単館ミニシアターでちょびっとマニアな映画を観て来たみたい~だけど。プロダクションのドイツでの評判(舞台写真アリ)はこのあたりに。
 11/18,21,23,26の4公演しかなくて26日は平日マチネだけど,23日もぴあではまだ残席あるみたいなので(11/21現在。当日券は不明~),迷ってる方はぜひ! ちゃんと書こうとすると時間がかかるので,第一報ということでっ。